忘れな草

 

 

 ルルノイエ皇城の一角にある階段。
 俺はそこで人を待っていた。
 頭の中は怒りで一杯だった。
 それとは正反対に、心中は自分でも怖いくらい穏やかだった。
 先ほど聞いた話を咀嚼すればするほど心は冷えていく…。

 かつかつかつ…

 急ぎ足で階段を上ってくる音が聞こえた。
 恐らく俺が待っていた人物だろう。

 「クルガン。」

 俺は怒りを含んだ声で書類の束を持って移動していたクルガンを引き止めた。
 引き止められた本人は迷惑顔で振り返った。

 「何だ?用ならば手短にな…。」

 ちらりと手元の懐中時計を見ながら言った。
 それは俺の怒りを煽るのに十分な仕草だった。

 「そ、じゃあ単刀直入に言うよ。”さようなら、二度と俺に触れるな!!”」

 半ば棒読みで俺はクルガンにそう告げた。
 冷たい視線というおまけ付きで…。

 「…どういう意味だ?」

 怪訝そうな顔をして問うクルガンに俺は投げ付ける様にして言った。

 「そのまんまの意味。…もう、終わりにしようぜ…俺達…。」

 俺の言葉に少しだけ、少しだけクルガンの瞳が揺れたような気がした。

 「…理由は?」

 「…嫌いになった…、それだけ!!!」

 早口でそう言うと俺は俯いた。
 ちくしょう、目頭が熱くなって来やがった。
 でも、俺はこの宣言を取り下げる気は全く無く、クルガンの脇を通り抜けて階段を駆け下りようとした。
 だけど、すれ違い様クルガンに腕を掴まれ、引き止められた。
 クルガンが何か言おうとしていたような気がしたけど、俺は一刻でも早くこの場を去りたくて、その手を振り払おうと思いっきり抵抗した。
 その反動で…。

 「あっ……!?」

 「シード!!!!!」

 階段を踏み外した俺の身体が宙に浮いた。
 まるでスローモーションのようにたっぷり時間をかけて視界が反転する。

 

 ―――――落ちる!!!

 

 そう思って俺はぎゅっと目を瞑った。
 そして、くるであろう衝撃を思い、身を硬くした。
 身体が後ろ向きに倒れるの感じながら、俺は階段から落ちた…。

 だが、衝撃はいつまでたってもこず、変わりに温かい何かが俺を包み込んでいた。

 

 ……………?

 

 訝しく思い、うっすらと目を開けると俺はクルガンに抱き込まれていた。

 「なっ!!!」

 俺を抱きしめ、クルガンは倒れたまま動かない。
 俺は焦った。
 その腕を押しのけ、立ち上がろうと手をついたその時、ぬるりとした生暖かい嫌な感触がした。

 

 …血…。

 

 クルガンの頭後部から赤い血が流れていた。
 それが、廊下を汚していた。

 戦場で見慣れているはずなのに、俺はそれがとてつもなく恐ろしく感じた。
 銀髪が俺と同じ赤で染まっている。
 その事実だけが俺が認識できた唯一の事だった。

 

 「クル…ガ、ン…」

 震える手でクルガンの頬を触る。
 しかし、その手はクルガンの血で赤かった。
 瞳を閉ざし、微動だにしないクルガン。
 冷やりとしたものが俺の背に流れた。

 嘘だろ…。

 気が付くと俺は水の紋章を発動させ、必死にクルガンに呼びかけていた…。

 

 

 

 あの後、近くにいた兵士達が俺のクルガンを呼ぶ声を聞き、何事かと駆けつけ、クルガンを医務室まで運んでくれた。
 取り乱した俺を補佐官がしきりに大丈夫です、と言って落ち着かせようとしてくれた。
 でも、俺の頭の中は血を流して倒れていたクルガンの事でいっぱいだった。
 白い軍服を、両手を、クルガンの血で赤く染め、かたかたと小刻みに震えていた。
 補佐官が部屋に戻るよう勧めたのにもかかわらず、俺は医務室の外の壁に凭れ、組んだ自分の手を見つめ、ただ只管クルガンの治療が終わるのを待った。

 

 

 「シード将軍。」

 呼ばれて俺は医師の元に駆け寄った。

 「クルガンは…!!??」

 「命に別状は有りません。」

 俺はほっと安堵の息を吐いた。
 しかし、次の瞬間医師の言った言葉に俺は凍り付いた。

 「ただ…一時的なものだと思われますが、記憶喪失になられておいでです…。」

 「……え?」

 

 ――――――記憶喪失?

 

 「暫く安静にして頂ければ元のように仕事は……」

 事務的に説明をする医師の声は最早俺に耳には届いていなかった。
 ”クルガンが記憶喪失になった”
 それだけが俺の頭の中で木霊した…。

 

 

 

 しゃっ

 医務室に入り、カーテンを開けるとクルガンはベットの上で上半身を起こし、そこにいた。
 窓から視線を移し、ゆっくり俺の方を振り返る。
 普段と何一つ変わらないクルガン。
 後ろに撫でつけた銀髪も、俺を見る淡青の瞳も、顔も手も何一つ変わらない。
 だけど、俺を見ての第一声がいつものあいつと違った。

 「……誰だ?」

 胸が押し潰されるかと思った。
 冗談だとすると性質が悪過ぎる。
 だけど…本当だというのだから尚更悪い。

 「…本当に…覚えてないんだな…。」

 隠し切れないショック。

 俺はクルガンの言葉に傷ついている。
 別れを告げたのは俺なのに、傷ついている。
 心が、泣いている…。

 

 俯いたまま、黙りこくっている俺に少しだけクルガンは困ったような顔を向け、問うた。

 「…名前は?」

 つきん…

 クルガンの台詞に心が痛む。
 悲しさよりも…寂しみよりも…感情より何より兎に角心が痛かった。

 あんたに怪我をさせたのは俺なんだぞ?
 その原因の俺を忘れたのか?

 悲しみと共に理不尽な怒りが少しだけ俺の中を通り過ぎた。
 クルガンの胸倉を掴み、下手な冗談はよせ!と叫びたい衝動に駆られた。
 だけど、俺の口から出た言葉は悪態でも罵声でもない。
 自分の名前だけだった…。

 「シード…。」

 辛うじてそう呟いた。

 「シード、か…良い名だな。」

 まるで幼い子供をあやす様にクルガンが俺の頭を撫でた。
 その仕草が記憶を失う前と同じだったから、同じ手の温もりだったから…。
 俺は不覚にも泣きそうになった。

 「が、ガキじゃねーんだから…!!」

 ぴしゃりとその手を払い除ける。

 「ああ、すまない。」

 そう言って、クルガンは払い除けられた手を摩った。

 俺が手を払い除けた後、必ずする仕草。
 同じなのに…。
 クルガンなのに…。

 記憶というものの欠落が俺にはとてつもなく大きな壁に思えた。

 

 

 

 

 「あっちが訓練場で、向こうに見えてるでっかい建物が図書館。」

 「………」

 翌日、ソロン・ジー(腹が立ったので呼び捨て)にどうせお前は仕事をしなくて暇だろう、クルガンに城内を案内してやれ!!と嫌味たっぷりに言われ、俺はしぶしぶ城内を案内していた…。

 今一番一緒にいたくないのに…。

 なるべく顔を見ないように努めた。
 クルガンも別段その事を気にも止めず、俺の後ろを黙って着いて来ていた。

 かつかつかつ…

 右斜め後ろ。
 クルガンの歩いている気配がする。
 思わず振り向きたくなる衝動を押さえ、視線を足元に落とした。

 あいつも俺も必要以上喋らなかった。
 思い沈黙だけが俺達の周りに重苦しく纏わり着いていた。

 

 

 「良い…天気だな…。」

 沈黙を破ったのはクルガンだった。
 中庭に差し掛かった時、呟く様に言った。
 俺は顔を上げて空を仰ぎ見た。
 晴天だった。
 真っ青な空がきれかった。
 その青さが俺の目に染みた。

 「うん…良い天気だな…。」

 そしてまた沈黙。
 でも、先ほどとは違い、空気が軽かった。
 何故かそれが俺には嬉しく思えた。

 

 

 「これで案内は終わり。」

 「ああ、有り難う。」

 一通り城内を見終えた俺達は元のクルガンの自室の前まで帰って来た。
 そのまま、じゃあ、と言ってそそくさと立ち去ろうとした俺をクルガンが引き止めた。

 「お茶でも…飲んでいかないか?」

 「……………。」

 沈黙の後、俺は頷いていた。

 

 

 「どうぞ。」

 そう言って出されたのは、いつもこの部屋に来た俺に出す紅茶。
 カップまでもが変わらない。
 一瞬躊躇した。

 

 …思い出したのだろうか?

 

 しかし、クルガンの様子を見る限りそうは思えなかった。
 気を取り直し、紅茶に口を付ける。

 

 同じ味…。

 

 普段と何一つ変わらない味だった。
 俺の大好きな、クルガンが入れる紅茶の味だった。

 

 「何故そのような顔をする…。」

 「え…?」

 弾かれた様に顔を上げ、俺はクルガンを見た。
 真剣な目でクルガンは俺の方を見つめていた。
 只、その瞳には普段の彼からは見る事の出来ない、不安の色が滲んでいた。
 俺の不安がクルガンの不安を煽っていたのだろう。

 

 記憶を無くして、不安なのはクルガンなのに…

 

 少し後悔した。
 普段の彼とは違うと言う事が俺の頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。
 いつだって冷静でいつだって無表情で…不安など億尾にも出さないクルガン。
 しかし、今の彼にはそうだった頃の記憶が無い。
 この間までの記憶が無いのだ。
 不安にならない方がおかしい。

 

 

 「…何故か、思い出さなくてはならない事があったような気がする。」

 俺の思ってる事を知ってか知らずかクルガンが重い口を開いた。
 陰りのある瞳に引き付けられる。

 「……何を?」

 淡い期待を抱き、尋ねる。
 だが、苦渋の表情で帰ってきた言葉は俺が期待したようなものではなかった。

 「わからない…」

 「そう…」

 眼を伏せカップに視線を落とす。

 暫しの沈黙。
 俺はその重さに耐えられなくなり、立ち上がった。

 「帰る…な…」

 泣きそうな顔を向けてしまった。
 もう、俺の中はぐちゃぐちゃで、混乱していた。
 クルガンにかける言葉が見つからなかった。
 早くこの部屋を出なければもっとおかしくなってしまう。

 足早に出口へと向かって歩き出そうとしたその時だった。

 「そんな顔をするな…。お前が辛そうな顔をすると私まで苦しくなる…。」

 「……っ!?」

 ドアの前で俺は立ち尽くした。
 身体が微かに震える。
 後ろから包み込まれるような感覚に眩暈がした。
 声を発し様にも、身体を動かそうにもピクリとも動けなかった。
 只、後ろから回された男の手に自分の手を重ねていた。

 思い出したわけじゃない。

 でも、とシードは震える手で重ねた手を握った。きつく握った。

 クルガンはシードを一旦開放し、自分の方を向かせると、その頬に手を当てた。
 そして、自然に顔を近づけた。
 シードはクルガンの瞳を見つめ続けた。

 

 「………っ!」

 唇が触れ様とした瞬間、クルガンはシードの身体から手を離し、その身を遠ざけるようにした。
 あまりに突然の事でシードは驚いた。

 「クル…」

 「すまない、私は何を…。」

 自己嫌悪の眼差しで額に手を当て、視線を床に向けたままクルガン言う。
 その様子がもどかしくて仕方なかった。

 何だよ
 いつものあんたなら
 いつのあんたなら…

 気が付くと俺はクルガンに抱き着いていた。
 顔は見えないけど、きっと驚いているだろう。

 「冗談じゃねーよ!!!俺との事何もかも忘れちまっただなんてっ!!!!!」

 激した感情のまま俺は捲くし立てた。
 止まらなかった。
 クルガンに忘れられたという事実だけが心に深い傷を作って…。
 忘れられる程度の存在だったのかという思いが溢れ出して…。
 喧嘩の前に聞いた貴族令嬢の話が胸を締め付けて…。
 心無い貴族達の噂話が頭からこびり付いて離れなかった。

 涙が頬を伝う。
 熱い涙が幾筋も伝う。
 咽喉からは嗚咽が漏れた。

 「……………。」

 俺に抱き付かれ、呆然としていたクルガンが俺を柔らかく抱きしめた。
 唇が降りてきた。

 「泣かなくて良い、思い出したから…。今、全て思い出した…。」

 弾かれた様に顔を上げた俺の唇をまたクルガンが奪う。
 いつもの、口付け…。

 そして、俺達は互いを確かめるように暫く抱き合った。

 

 

 

 ようやく落ち着いた俺にクルガンは溜息がてらこう言った。

 ―――――仕事が1日分溜まった…

 

 「大体、お前が余計な事を言わなければ記憶喪失になぞならなかったんだぞ…。」

 「何だと!!!元はと言えばあんたが浮気したからだろっ!!!」

 「……責任転嫁か?」

 「それはそっちだろ?」

 無言の睨み合いで火花が散った。
 でも、何だかそれが嬉しくて、噂とか浮気の事とか追求したい事は山ほどあったけど…。

 「ばかやろ…」

 呟くと俺はクルガンの胸に飛び込んだ…。

 

 

 

忘れないで。

忘れないで。

私を忘れないで。

貴方の中の私を忘れないで。

貴方の中の私を、消さないで…。

 

 

THE END

 

 

 

貴方は忘れな草の花言葉を知っていますか?
『私を忘れないで…』
これは今回のシードの想いそのもの…。
私的にはそう思うのですが…。
乙女だわ。乙女思考ですな…。(笑)
それにしても、今回のクルガン氏…
モラリストですよ!モラリスト!!
モラリストなクルガン略してモラクル!!(大爆笑)

紺野碧