―painting black―



シードは信じられない思いで、手元の一枚の書類を凝視していた。
尤も、その紙面上、彼が見ているのは並ぶ字ではない。それらの一部を塗り潰してしまっている、真っ黒なインクの零れた後だった。
今では乾いて手につくことはないが、べっとりとしか表現のしようのないその有様に、シードは呆然と見入っていた。
数時間前、自分がやっとの思いで完成させた書類の変わり果てた姿に、言葉もなくしている。
今では完全には読みとれなくなったが、書類の内容は、抜本的な部隊の再編成についてのものだった。
シードの真下にある大隊の、細やかな人事異動に関する指令書だが、本来、この手の仕事は彼がするものではない。
彼は承認の印を押すだけで、後は第四軍の師団総監部長官であるところのクルガンに自動的に回されるものだった。その後は第四軍団長であるソロン・ジーの元へ回されるのだろうが、そこまではシードの知った事ではなかった。
ただし、彼が作成する書類でなかった事だけは確かだった。
それでも、彼にはこの書類を自ら作らなくてはならない事情があった。




些細な事で発展した口論の中、「おまえは馬鹿で無能だ」と断言し、言い渡す青灰色の冷たい瞳に頭に来て、舐めるなと叫んだ事が、書類を作成する事になった発端だった。
と言うよりも、いい加減ぶち切れたと言うのが正しい。
クルガンが自分を馬鹿にする事は、今に始まった事ではない。
だがそのために、シードには溜まりに溜まった鬱憤があった。
いつか見返してやると思いが衝動となって大見得を切らせ、できるものならと言う挑発を受けて、実際の行動に繋がった。
手始めに、来週に期限が迫っている書類を提出してもらおうかと、冷ややかに命じた男に、三日で片付けてやると怒声で返して、執務に努めた結果、シードは予告通り、三日で仕上げる事に成功した。
しかし、詰めを誤ったかもしれない。
三日間で仕上げた代償に、シードは睡眠を捧げていた。
つまり書類作成に挑んでいた時間、シードは不眠不休で過ごしていた。
勿論、すべき仕事はきちんと果たしている。けれどその他の、今まで遊びや睡眠に回していた時間のすべてを費やしていた。
終わったと言う解放感と、これでクルガンの仏頂面を見る事が叶うと言う満足感に、気が緩んだ彼はそのまま、出仕してきた文官にクルガンへと提出するよう、作成した十数枚の書類を渡し、そのまま倒れるようにしてソファで眠り込んでしまった。
当然この日は何の仕事もできなかったが、そのあたりは優秀な部下が取り繕ってくれていたらしく、叩き起こされる事もなかった。




次にシードが目を覚ました時、日はとうに暮れていて、夜になっていた。
寝足りないと訴えて鈍い体を何とか起こし、軽く伸びをしてかけられていた毛布に気付く。
たっぷり寝かせてくれた上に、気遣いを忘れない部下に、気分を良くしてシードは暗い室内に明かりを灯した。
それから渇いた喉を冷たい水で潤し、颯爽としてクルガンの部屋へと向かったのだが、彼は自室にはまだ戻っていなかった。
仕事が長引き、執務室にいるのだろうと、行く先を変えたまでは良かったが。
クルガンは、思った通り執務室にいた。
多分、顔を見て引き返せば、シードが衝撃を受ける事はなかっただろう。
証拠の隠滅を図る事を、クルガンは考えていたと言う。
ここでシードが部屋に入らずにいれば、何ら問題が明るみに出る事はなかったのだが、けれど、その時のシードは勝利者だった。
まして、クルガンを嘲笑おうと、彼の渋面を見たいがために頑張った後だった。
当然引き返すはずもなく、彼は意気揚々として、複雑な顔をしているクルガンが何かを言う前に、自らの成し遂げた結果への感想を尋ねた。
だが、返ってきたものは言葉ではなく。
クルガンは無言で、先の書類の一枚を取り上げ、シードへ向かって見せたのだった。




こうなってしまった原因は、幾つかある。
先ず、クルガンはシードが本当に三日で片付けるとは思っておらず、むしろそんな約束さえ忘れていた。
できないと思っている事を覚えている程、暇ではない。
少なくとも、宣言された期日以降になるだろうと思っていたため、今日がシードの言った三日目である事などは完全に忘れていた。
次に、何故か今日に限って決済すべき書類は多かった。来月を過ぎれば年を越えるため、今年中のものが大量に提出され始めたようで、それが運悪くも今日が初日となってしまい、クルガンのデスクには余裕を奪う量の書類が積み上げられる事になった。
さらに、クルガンがそうして多忙になれば、彼の部下たちも当然忙しくなる。
明日以降、暫くこの状態が続くのだと言う事を踏まえ、今日の分は今日中に片付けなければならないと言う焦りが、誰の胸にもあった。
実際には、騒々しい忙しなさはないものの、心は大騒動で、そのために、今回の事はふとした弾みでの事で、シードには間の悪い事だったとしか言いようがない。
見直した書類の正確さに不安を抱いた部下の一人が、クルガンに見て貰おうと彼の前へ進み出た。
それはクルガンが終わった書類を左へやりつつ、次なるものを右手で取り上げ、手元に置いた時だった。
紐で綴じられた書類に目を落としたクルガンは、それがシードの文字であった事に、暫し紙面を見つめていた。
綺麗とは決して言えない字を見た彼は、先に聞いた宣言を思い出し、シードが本当に事を成し遂げた事を知ったのだが、まさかと言う思いは隠せなかった。
その驚きが、彼の反応を鈍くさせた。
クルガン将軍と声をかけながら、近づいてきた部下が、不意に上体を傾がせる様を、彼はただ見ている事しかできなかった。
何もない床でつんのめると言う失態を冒した部下の手が、支えを求めてクルガンのデスクに伸びる。
体重をかけられたデスクが揺れ、インクの入った瓶が倒れるまでは、一瞬だった。
まずいとクルガンが思ったのは既に事後で、哀れにもシードの書類は、黒塗りの洗礼を受ける事になり。
これが、今シードの手にある書類に起こった出来事だった。




「マジかよ…おい……」
事情を聞き終えたシードが、見てもどうにもならない書類から目を上げ、掠れた声で質す。
「俺、徹夜でやったんだぜ? これ…」
話を聞く前に勧められたソファにかけたシードが、傍らに立っている男を見上げる。
その表情はあまりに情けなく、目は泣きそうに見えた。
クルガンの鼻を明かそうと思っての事だったが、不眠で頑張った代物だった。
それが、たった一瞬で無駄になってしまったのだ。
勿論、続く他の書類は無事だったため、使えなくなったのはこの一枚だけだが、それでもこの一枚に、シードは必死の思いをかけていた。
だが、少なくともこの一枚にかけた時間と気力は、無駄になってしまった。
否定されたような思いがわき起こり、泣きたい気分になったのは、シードには仕方のない事だっただろう。
「すまなかった。私の不注意だ」
詫びるクルガンも、さすがに苦い顔をしている。
もし今夜、シードが現れなければ、不慮の事故だとして秘密裏に同じものを作成し、次に彼に会った時には何食わぬ顔で書類を受け取った事と、見直したと言う言葉をかけようと思っていた。
しかし、もし今夜シードが来るようであれば、クルガンは誤魔化さずにいようと心に決めていた。
彼が現れようが現れまいが、事の隠蔽は難しい事ではなく、一言褒めてやればシードが今のように泣きそうな顔をする事はなかっただろう。
おそらく、シードにとっても黙っていた方が良かった。
けれど、彼が懸命になって仕上げたものを、使えなくしてしまったのだ。
その責は負うべきものだろうと、クルガンは考えた。
だが、シードのためを思えばと言う考えも捨てきれず、今夜現れるか現れないかに、選択を委ねる事にした。
結果、シードは喜び勇んでこの部屋を訪れ、クルガンは真実を隠す事を諦めた。
そして、書類を見せ、事情を話し、謝罪を述べていた。
「責任は取ろう。その書類は当然私が作り直す」
「…って言われてもさ…。何か、割り切れねぇよ…」
改めて作り直す事は勿論、彼らがすべき事だと思うが、けれど自分の努力はどうなるのか。
再作成で済む事だとされるのは、どうにも納得できない蟠るものを感じた。
具体的に、何をどうして欲しいと思っているわけではない。
ただ、あまりの事に何かが惨めだった。
その気持ちはクルガンにもわかるのか、彼はシードに当然だと言い、改めて責任を取ると告げた。
「おまえが望む事を叶えよう。半年でも一年でも、おまえに回る書類を私が片付けてもいい。他に望みがあるならそれを言え。何でも叶えよう」
こんな時でもなければ、クルガンの言葉はひどく情熱的な告白のようだった。
思わず、シードが見上げていた目を瞬く。
言って貰えるはずのない言葉を受けた事による少しの混乱と、けれど確かにそう言ったクルガンへの訝しみ思いが、その翡翠の瞳に浮かんだ。
けれど、今言った事はクルガンの本心から言葉で、必ず守ると誓える約束だった。
それだけの価値があの書類にはあったと、クルガンは認めている。
貴重なものだったのだ。
普段、仕事を厭い、他人を頼る事に躊躇わない彼にしては珍しく真剣に取り組み、終えた仕事だった。
他人が聞けば、たかが書類一枚と思うかもしれないが、クルガンはそこにかけられたシードの努力を侮る事はしたくなかった。
正当に評価すればこその、その申し出だった。




シードが真っ直ぐにクルガンを見上げる。
青灰色の瞳に、偽りは感じない。
「本気かよ、てめぇ…」
本気だとわかっていたが、問わずにはいられなかった。
クルガンは否定も肯定もせずに、シードを見下ろして囁くように「何を望む?」と問い返した。
本当に本気なのだとわかり、シードは何故かいたたまれなくなるものを感じて、苦く笑いながら、彼から顔を背けた。
「いいよ、もう。俺がちゃんとやった事さえわかってくれりゃ、それで」
元々、結果を見せたかっただけだった。
クルガンの目に止まった時点で、その望みは叶っている。
少なくとも今後は、やってやれない人間ではないのだとわかってもらえるだろう。
彼が本気を懸ける程の事ではない。
それ程の事ではなかった。
けれど、クルガン自身はそう思わないのか、譲られる事をよしとしない。
「望みを言え、シード。必ず叶えると誓おう」
むしろ、それこそが譲れない事なのだと言うように、改めて求める。
要求をと言う視線を感じながら、シードはふと、下向くように瞼を半ば伏せた。
彼があまりに真剣でいるため、シードも引きずられる。
仕事なら、嫌でも割り切って何とかこなしている。
何よりその程度の事に、彼の本気は見合わない。
彼の本気に見合う、求めるものを言えと言うのであれば。
思い浮かんだものは、ただ一つしかなかった。
「マジに、誓えんのか…?」
「あぁ」
確認するシードに、クルガンは即答だった。
それこそが、彼の誓う姿でもある事に、シードはゆっくりと視線を上げ、首を巡らせて彼を見つめた。
クルガンですら、ハッとする程に真摯な瞳が、そこにある。
「じゃあ、くれよ」
 求めるものなら、本当にただ一つ。
 求めるだけでは絶対に得られない、けれど欲しいものは、たった一つしかない。
「くれよ。おまえのプライド」




翡翠の瞳に真っ直ぐに射抜かれながら、クルガンが跪いた。
ソファにかけるシードの右足を取り、その皮のブーツへとそっと顔を寄せる。
シードは、ただじっと見ていた。
クルガンがそこに口づける様を、強く鮮烈なまでの眼差しで見つめていた。
儀礼ではなく膝を折った彼を、そのまま受け取るかのように。

形だけなら、この男にとっては何ほどの事でもない。
仕える皇子や陛下の前でも、平然として同じ事をやってのけるだろう。
けれど、シードが求めたものはそんな表面だけのものではなかった。
取る形は同じでも、そこに彼の本気がなければ、何ら意味はないのだ。
そして、クルガンは躊躇う事なく応えてみせた。
それは最早、代償と言う問題ではない。
その事に、シードは目眩にも似た陶酔と、この男への強い欲情を感じた。




口付け、顔を上げたクルガンと目が合う。
シードは、感じた事を隠さない表情のまま、ソファへ深く凭れて気怠げに腕を上げ、何とはなしに額に手を当てた。指先が震えている。
「……バカだな、おまえ」
ため息の中でそう言った彼に、クルガンが冷たく微笑んでみせた。
「言ったはずだ。何でも叶えると。惜しくはない」
どうせいつかは与えると決めていたものであり、与えたかったものだった。
求められて与えられるのであれば、これ以上はない。
惜しむどころか、誇りさえ感じていた。
「ついでに、後悔させる気もない事を伝えておこうか」
 求められた事に裏付けされた自信で、からかうようにそう言った男の、やはり本音に、シードが震える指先で目にかかる赤い髪をかきあげ、呆れたような照れたような微妙さで、小さく笑った。
「ホント…バカだな、おまえも」
クルガンもバカだが、感動している自分も相当だと思いながら、背を預けていたソファから身を起こす。
そして、未だ跪いている男を覗き込んだ。
「…正気だよな?」
「おまえよりはマシだと思うが」
その返事が気に入ったのか、シードは上等…と囁きで返して、より顔を寄せた。
掠めるように口づけて、少し瞼を跳ねさせたクルガンに、ニヤリとする。
「領収書代わりだ。とっとけ」
身を引いての小憎らしい笑みに、クルガンが再び冷たい微笑を浮かべた。
「…受け取った証は要らないか?」
「その手に乗るか、バーカ。第一それじゃ、堂々巡りだろ」
「では、これは珍しく礼儀正しいおまえへの礼だ」
言って、クルガンが腕を伸ばし、先ずシードの膝に放り出されていた左手を取った。
見下ろす瞳を知りながら、取った手の甲に口付け、ソファへと軽く身を乗り出して、シードと目線を合わせる。
「次は、どこに何の礼をしてやろうか?」
囁く低音に、シードが瞬間、痛いように目を細め、それから深く吐息した。
「…おまえに恩を売ると、逆に損してる気分になるのは何でだろ」
「さぁな」
クルガンが低く笑って、唇を寄せる。
シードは抗う事なく、そのキスを受け入れた。


そうして、ソファがゆっくりと深く、静かに沈み。
微かに軋む音が、あえかな吐息に紛れて、室内に細く短く、小さく響いた。


                                                          〜end〜

 

『新鮮市場』様にて4500番GET!!
花子様に書いて頂きましたvvv
「LOVELOVEクルシー」です!!!
すみませんでした…。