Arabesque―傷痕―
時刻は最早夜半過ぎ…。
長い執務の合間、紙面に滑らせいた筆を止めると私は軽く首を回した。
鈍い音がして首の骨が鳴る。
かなりの時間書類に向き合っていたからであろう、だるくなった肩を2・3度叩く。
それだけで疲れが取れるわけではないが、しないよりはましであろう。
そう思って肩を叩いていた手を何気なく見た時、ふとその手首に視線が止まった。
傷痕…?
手袋と服の隙間から見えた薄い傷痕。
初め、覚えがなく首を傾げたが、今日の行動を振り返り、すぐに合点がいった。
「なるほど」と呟きその傷痕をなぞる。
あの状況下で私に一太刀を入れるとは…
今日の午後、新しく昇進し、第4軍団に配属されて来た『シード』という人間と手合わせをした。
恐らくその時のものであろう…。
しかし、いつつけられた傷痕なのか…。
いつものように冷静に状況分析をする。
が、彼の太刀筋を読み、一太刀も入れられていないと思っていた私にとってそれは驚きそのものであった。
『シード』という人間は存在そのものが強烈な人間だった。
外見上の印象深さは勿論の事。
だが、それ以上に何度倒れても立ち上がり、私に強い光を称えた瞳を向けてきた事。
あの強い瞳が鮮明に蘇る。
深く紅い瞳が…。
珍しい毛色の者が入ってきた…。
荒々しい中でも繊細さの見られる太刀だと感じたのを覚えている。
ふいに、奴の行く末が楽しみになった。
奴は私の興味を引くに足る者であった。
他人の事に興味を持ったのは一体いつ以来の事であろうか?
我ながら珍しいと思いつつ、口端に笑みを零した。
「珍しいな、お前が笑っているとは…。」
「ルカ皇子…」
上げた視線の先にこの国の第一王位継承者ルカ皇子が立っていた。
彼は組んでいた腕を外すと、凭れていた戸口から身を離した。
「何か面白い事でもあったか?」
つかつかと歩み寄る彼に私は席を立ち、右腕を胸に着け、頭を垂れた。
「いえ、対した事ではありません。」
「ふん。シードと手合わせをしたらしいな。」
「はい。」
「あれは中々見込みがあるだろう?」
「いえ、まだまだ経験不足です。それに戦場で指揮を取る人間としての自覚も足りないようです。」
「おお、これはこれは手厳しい批評だな、クルガン将軍。」
茶化しながら言う。
確かに辛口の批評だと自分でも思った。
だが、それを訂正する気は私にはさらさら無かった。
「私は感じた事を言ったまでです。」
「くくく、まあ良い。」
不適な笑みを称え、彼は去った。
その背を顔を上げぬまま見送った。
辛口の批評…か…
心中でもう一度反芻する。
また笑みが漏れる。
先ほどとは違う、歪んだ笑み…。
いくら見込みのある者とて、あそこまで叩きのめされては暫くは使い物にはならんだろう…。
私は窓に寄るとカーテンを引いた。
城はしん、と静まり、警備の者が点す明りだけがゆらゆらと揺れているのが見れた。
窓の鍵を外すと、テラスに出た。
夜風が私の頬を撫でる。
この間まで冬だと思っていたのにな…。
軽く髪を撫で付け、テラスを後にしようとした私の目に何か動くものが飛び込んできた。
庭園の中、今は木々に隠れているが確かに人影が見えた。
初めは侵入者かと思った。
だが、それにしてはやけに落ち着いた動作であった。
ではこんな時間に一体誰が、何の用で庭園を歩いていると言うのか…。
闇の中、木々の間を抜けた人物は白くくっきりと浮かび上がっている。
どうやら剣らしき物を持って歩いているようだ。
私は目を凝らし、その人物を見た。
私の目に移った人物、それは…。
「シード…?」
紅い髪、白いサーコート。
まぎれもなく、昼間に手合わせをしたシードであった。
奴は庭園の真中を急ぎ足で通り抜けると更にその奥へと進んで行った。
奥にある建物、それは室内訓練場だった。
シードが入って間もなく、訓練場の開け放たれた扉の隙間から煌煌と明るい光が漏れる。
なるほど…昼間私に負けたのがよほど悔しかったのか…。
昼間の手合わせを思い出した。
すると、笑いが込み上げて来た。
可笑しくて堪らなかった。
完膚なきまでに叩きのめされたその日の夜中に練習だと?
「怖いな…。」
くつくつと咽喉の奥から声が漏れた。
笑いが止まらなかった。
だが、止めるつもりもなかった。
怖いと言うのは本心だった。
負けを恐れぬ者ほど強くなる。
あの赤毛がどこまで強くなるのか、興味が沸いた。
前に感じたものよりも強い興味が…。
私自身気の付かぬまま、その足は執務室の出口へと向かっていた…。
中途半端な所で終わるのが得意な私…、。(殴)
只単にクルガンとルカ様の対談?
それにしても厳しい批評のクルガン氏…。
しかし…新入社員を虐める上司みたい…。(汗)
でも、シードに期待はしてるのね…クルガン氏…。(苦笑)
紺野碧